二・二六事件を起こすきっかけになった理由で一番有名なものに、東北地方の農村の疲弊があったと言われます。
昭和4年、10月24日、ニューヨークのウォール街を襲った株価の大暴落。世に言う「暗黒の木曜日」です。その影響は瞬く間に世界に広がりました。当然、日本にも来たわけです。
その打撃を一番受けたのが、日本国民の大多数を占める農民でした。当時、日本の輸出品の4割を占めていたのが生糸でした。しかし世界恐慌の影響で輸出品の価格が暴落。日本各地にあった紡績工場は、生産調整を余儀なくされてしまいます。
収入も激減するわけで、そこで働く従業員の給料も激減。クビを切られないだけまだマシだと言われるような状況に陥ってしまうのです。当時、日本の農家の4割が兼業として養蚕をしていたそうです。しかし、輸出生糸の価格暴落で、繭の価格が60%以上も下落してしまったのです。農家の生活は困窮を極めるようになりました。また、農村の娘たちは主に紡績工場などで働いていました。しかし、給料が激減してしまったので娘たちの収入源も絶たれてしまいます。
さらに追い討ちをかけるように、東北地方では大凶作に見舞われます。乳児の死亡率は激増し、徴兵検査で上位を占めていた東北の男子たちは、大幅に順位を落としていったのです。どれだけ悲惨な状況だったか分かるのではないでしょうか。
そんな状況にもかかわらず、当時の政党や内閣は支援を受けている大財閥にとって有利な政策を次々とぶち上げ、弱い立場である農民が生きていくのに大変になる状況を作り出してしまいます。
そんな困窮を目の当たりにした決起将校がいました。
對馬勝雄中尉です。
彼は青森県の生まれでした。
子供のころから学業がとても優秀で、小学校のころには総代まで務めています。中学校でも成績が優秀だった彼は、青森中学を1年で終了し仙台幼年学校に合格します。
その後陸軍士官学校へ入学するのです。
事件に参加した青年将校の父親は同じ軍人であることが多いのですが、對馬中尉は違いました。それほど裕福ではない家庭に生まれたようです。本当の意味で、東北地方の貧しさを知る人だったのでしょう。
彼は元老・西園寺公望を襲撃する予定だったのですが同僚や部下に反対され、急遽予定を変更。東京へ来て、首相官邸襲撃に参加するのです。
彼も死刑に処されます。
享年27歳。
今の私と同い年なのです。
私が涙してしまうのはなぜなのでしょうか。
彼のしたことは、決して許されることではないのに。
それはきっと、事件の直前に生まれた息子へ残した遺書があるからでしょう。
河出文庫「二・二六事件」から引用させてもらいます。
「来たか坊やよ 悧口な坊や
たった一つで母さんのつかひに
はるばる汽車の旅 おゝお手柄お手柄」
死刑判決が下ってから、彼の両親は面会に来れましたが、妻は産後の肥立ちが悪く、面会に来ることができませんでした。そんなとき、祖母の手に抱かれて息子が面会にきました。そのときの喜びを表した歌です。
会えなかった妻に宛てての遺書も読みました。妻の身を案じ、自分の行為を侘びつつも、武人の妻としてどうあるべきかを説いています。涙が止まりませんでした。その遺書の中の一文に、どうか赤飯を炊いてくれと書いてありました。皇国のために死ぬのだから、これ以上の幸福はないと。
「天皇陛下万歳」を叫んで死んでいった気持ちを思うと、胸が締め付けられます。しかし彼らの起こした行動で、農村を救うことはできませんでした。暴力では何も変えられなかったのです。
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